武満徹の本『武満徹/Visions in Time』(ビジョンズ・イン・タイム) |
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武満徹にとって、見ることは聴くことであり、聴くことは見ることだった。作曲家が愛し、創造の源泉とした美術作品、遺された珠玉のことばから、世界中で愛されるその音楽の秘密を、没後10年の今、解き明かす!! |
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武満徹/Visions in Time
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出版社名 |
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エスクァイアマガジンジャパン |
ISBN |
: |
4-87295-102-6 |
発行年月 |
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2006年4月9日 |
言語 |
: |
日本語 |
装丁 |
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ハードカバー |
サイズ |
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21.8×15.5cm |
ページ |
: |
221p |
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武満徹にとって、見ることは聴くことであり、聴くことは見ることだった。作曲家が愛し、創造の源泉とした美術作品、遺された珠玉のことばから、世界中で愛されるその音楽の秘密を、没後10年の今、解き明かす。 |
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この商品の内容・画像、武満徹(たけみつとおる)について |
武満徹 (たけみつ とおる, 1930年10月8日〜1996年2月20日)は、現代音楽の分野において世界的にその名を知られ、日本を代表する作曲家である。1930年10月8日に東京で生まれる。生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。1937年、小学校入学のために単身帰国し、東京市本郷区の富士前小学校に入学。叔父の家に寄留。1943年、旧制の私立京華中学校に入学。戦争中に聞いたシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』に衝撃を受ける。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に師事するが、ほとんど独学であった。京華高等学校卒業後、東京芸術大学音楽学部を受験して失敗。無名時代、ピアノを買う金がなく、町を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという。(それを知った黛敏郎は武満と面識はなかったにもかかわらず自分のピアノを貸し与えた)。
武満が音楽を志したきっかけは、防空壕の中で聴いたオルゴールの音色に感動し、創作意欲が沸いたから、という逸話がある。(ウィキペディアより引用) |
武満徹 (たけみつ とおる)の経歴と作品概論 |
1930年10月8日に東京で生まれる。生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。1937年、小学校入学のために単身帰国し、東京市本郷区の富士前小学校に入学。叔父の家に寄留。1943年、旧制の私立京華中学校に入学。戦争中に聞いたシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』に衝撃を受ける。やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に師事するが、ほとんど独学であった。京華高等学校卒業後、東京芸術大学音楽学部を受験して失敗。無名時代、ピアノを買う金がなく、町を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという。(それを知った黛敏郎は武満と面識はなかったにもかかわらず自分のピアノを貸し与えた)。
武満が音楽を志したきっかけは、防空壕の中で聴いたオルゴールの音色に感動し、創作意欲が沸いたから、という逸話がある。
1950年、処女作であるピアノ曲『2つのレント』を発表。今でこそ「世界のタケミツ」としてその名を轟かせる彼であるが、デビュー当時の音楽界は彼の音楽に対して必ずしも好意的でなく、「2つのレント」は当時の音楽評論家の山根銀二が「音楽以前である」と酷評。映画館の暗闇の中で泣いていたというほろ苦いエピソードも残っている。
翌1951年、詩人の瀧口修造の下で、作曲家の湯浅譲二らとともに多方面の芸術家からなる集団『実験工房』結成メンバーに加わる(詳しくは該当項目を参照)。この最初期の作風はメシアンとベルクに強い影響を受けている。協和的な音響を使いながらも従来の調性感覚とは離れており、自由な無調的感覚と言える。「実験工房」内での同人活動として、上述の湯浅譲二や鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫、ピアニストの園田高弘らと共に、メシアンの研究と電子音楽(広義の意。主にテープ音楽)を手がけた。武満のメシアン研究の成果・影響としては「遮られない休息」「妖精の距離」(いずれも瀧口修造の詩から取られた題名)が挙げられる。また武満はテープ音楽(ミュジーク・コンクレート)として「水の曲」「ヴォーカリズムA.I」などを製作し、これらを通して音楽を楽音のみならず具体音からなる要素として捉える意識を身につけていった。
1957年、結核の病床で死を意識しつつ『弦楽のためのレクイエム』を書く。この作品のテープを、1959年に自作の指揮のために来日したストラヴィンスキーがNHKで聴き、「厳しい、実に厳しい。このような曲をあんな小柄な男が書くとは…」と称賛。以後、これをきっかけに周囲の評価は一変、名作・話題作を続々と発表して名を広めることとなる。この時期の作品では特に「樹の曲」「地平線のドーリア」などが挙げられる。
1960年代前期は、特に管弦楽曲においてクライマックスを目指すヒートアップの方向性が明確に表れる。「アーク」「クロッシング」「アステリズム」などがこれにあたる。この時期には西欧前衛の動向を手中に収め独自の語法として操る術を獲得しているが、特にヴィトルド・ルトスワフスキのアド・リビトゥム書法からの影響が直接的に現れている。もっともこれは結果としてルトスワフスキとの類似となったもので、直接には1960年代初頭に一柳慧によって日本にその思想が持ち込まれたジョン・ケージの偶然性の音楽の影響が強い。日本にケージ・ショックが巻き起こる中で、武満はピアニストのためのコロナなどにおいて、直接的には図形楽譜による記譜の研究、内面的には偶然性がもたらす東洋思想との関連などを探った。そして帰結したのが時間軸の多層化という考え方である。
しかし前述の「アーク」などは、確かに表面上の手法においては“オーケストラの中でそれぞれの奏者が任意の時間を選択し一定の奏法パターンを繰り返す”というやり方によってオーケストラの内部における時間軸の多層性は確保しているものの、全体のテクスチュアの動きとしては“クライマックスを求めるヒートアップとその後の拡散(クールダウン)”という一元的な視点に帰結してしまう。この問題を曲全体の汎志向性というやり方で解決に導いたのは、1960年代後半以降である。
1960年代後期には、それまで映画音楽でのいくつかの試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。この頃から徐々に、上で述べた(1960年代前期までの)西洋音楽的な一次元的時間軸上の集中的指向性を薄め、東洋音楽的な多層的時間軸上の汎的指向性へと変化していく。その中で1967年、ニューヨーク・フィル125周年記念の作曲をバーンスタインに依頼され、琵琶と尺八とオーケストラの構成による『ノヴェンバー・ステップス』を作曲。この成功によって名声をさらなるものとした。
後期には、前衛語法の使用から次第に調的な作風へと変化していった。具体的には「グリーン(当初の題は「ノヴェンバー・ステップス第2番」)」を発端とし、いくつかの中規模な作品を経て「カトレーン」「鳥は星型の庭に降りる」など1970年代終盤において明確に調性を意識するようになる。卓越した管弦楽法と絶妙に折り重ねられた和声は、多くの場面において時にドビュッシーを思わせながらも決してそれを安易な“過去の様式の模倣としての調性音楽”の次元にとどまらせず、独特の「タケミツ・トーン」と呼ばれる独自の音響へ帰結した。
モートン・フェルドマンのいう「オーケストラにペダルをつける」アイデアをここまで自家薬籠の物とした作曲家は彼だけであり、「タケミツ・トーン」とはこのことを指しているとも言われる。茫洋とした雰囲気の創出が「日本人としては稀に見るほどに高度の書法を身に付け、中心音の取り方がドビュッシーと違う(細川俊夫)」点にあり、「実は数的秩序をハーモニーに導入している」と自らが語った晩年の創作軌跡の全貌は、明らかにされていない点も多い。
武満は「ベルント・アロイス・ツィンマーマン、ヘルムート・ラッヘンマンやブライアン・ファーニホウなどの作曲家は日本にほとんど好意的に紹介しなかった(長木誠司)」といわれているように、今日の音楽で取り扱った曲目は武満の好みを反映してかなり偏りがあるのも事実である。しかし、武満は日本人にフィットする作曲家を没年まで調べつくしており、1990年代の写真にはカナダのモントリオールで行われたFORUMのカタログが脇に挟まっている。その為にマグヌス・リンドベルイのようなデビュー間もない逸材を北欧から発掘することができたのも、武満なしには考えられなかった。
晩年、それまで手をつけていなかったオペラに取り組もうと意欲を見せるが、不幸にも、作品は完成の日の目を見ることはなかった。タイトルは「マドルガーダ」となる予定で、エレクトロニクスを用いた意欲的な作品になるはずだったようだ[1]。1995年、膀胱、および首のリンパ腺にがんが発見され、また、間質性肺炎を患っていた彼は数ヶ月の入院生活を送ることになる[2]。退院後、「森のなかで」「エア」を作曲。これらが完成された最後の作品となった[3]。1996年2月20日、65歳で死去[4]。死の数日前の日曜日に、NHK-FMで午後3時から放送されていたバッハの「マタイ受難曲」が武満の聴いた最後の音楽だったろうと考えられている。この曲は武満の大好きな曲だった。
晩年監修を務め、彼の死後完成した東京オペラシティのコンサートホールはタケミツ・メモリアルの名が冠せられた。東京オペラシティの一連のオープニング・コンサートの中で、作曲家でピアニストの高橋悠治は武満のために、「閉じた眼II」を弾いた。高橋は武満から「祈りとしての音楽」と「バッハをピアノで弾く」というテーマでコンサートを頼まれていた。演奏が終わって拍手がおこった時、高橋悠治は礼をせず、代わりに「閉じた眼II」の黄色い楽譜を高々と掲げて客席に示した。
彼や指揮者の小澤征爾らの世界的な成功は、戦後の日本の音楽界の存在を世界に知らしめ、その評価を上げることとなった。
娘の武満真樹は洋画字幕の翻訳家で、2005年からクラシック・ジャパンの副社長を務めている。(ウィキペディアより引用) |
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